手紙セレクション / Selected Letters / 1829年1月10日(25歳)

凡例:緑字は訳注

パリ発、[1829年]1月10日
妹ナンシー・ベルリオーズ宛

君たちから連絡がないので、僕の方からまた書かねばならない。お父さんが25日位前にくれた手紙に、僕は返事を書いているが、その手紙は、12月19日付けだった。お金が必要かどうか、お父さんが訊いてくれたので、僕は、お願いしますと答えている。だが、実際には、その後、何も受け取っていないから、僕は、50フランばかり借財せざるを得なかったし、今月1日に部屋代を払った後は、何も残っていない状態だ。
お父さん宛に送った荷箱が、とうに届いていると思うが、君も、ゲ嬢の詩集が中に入っているのを見つけたと思う。何故かは分からないが、僕は、この若い女性詩人に、ある種の先入観を持っている。女性のもつ天賦の才ほど美しいものはないが、僕は概して、女流作家は好みでない。僕を悲嘆に暮れさせてくれる作家( mon Désolateur )、トマス・ムーアの詩集も、君に送っておいた。これこそまさに、詩というものだ!翻訳のせいで、元の意味がひどく変わってしまっているには違いないが・・・。原書が読めればよいのだが、英語のレッスンも、中断せざるを得なかった。『天使たちの愛』と、『[アイルランド]歌曲集』の幾つかの詩、特に、173頁、196頁、120頁、189頁のものを、君が気に入ってくれるとよいのだが。音楽についての詩は見事なもので、ムーアが音楽を理解していること、音楽がもたらす高揚を、彼が経験していることが分かる。鷲( aigle )のごときベートーヴェン[鷲(ワシ)は、優れた知性を持った人、天才のたとえに用いられる]の、崇高な器楽曲を聴けば、この詩人[ムーア]の次の感嘆の言葉の正しさが、理解できるだろう。曰く、「おお、神のごとき楽(がく)の音(ね)よ、汝の魔法の前には、無益にして力なき言葉は、ただ退散するのみ。ああ、汝がその心を、誰の助けも借りずに顕(あらわ)わすことができるというのに、いったいなぜ、想いを言葉にする必要があろうか?」と。
とはいえ、僕にはむしろ、そこまでに至った芸術は、幸福の一要素というより、一つの災い( un fléau )のように思える。そのような高みに引き上げられ、それからまた降りてきたときには、もうそれだけで、普段の生活が、あまりにも耐えがたい重荷に感じられてしまうのだ。つい最近のこと、僕は、お父さんへの手紙に書いた[ベートーヴェンの作品の]演奏会がはねた後、身体じゅうを震わせながら、やっとのことで音楽院の中庭に出てきた。時刻は4時だった。「ああ、終わってしまった、」僕は独り言(ご)ちた。「これからどうしよう?今日この先の時間は、僕には、辛いばかりだ。帰ろうか?だが、それではますます孤独を感じるばかりだ!眠ってしまえればよいのだが!少なくともそうすれば、日常生活の卑俗さを感じないで済むから!」
そこで僕は、劇場に行くのだが、それは大抵、奏者の人たちと話すためか、そこで暖をとるためなのだ。オペラ座のロビーには、いつも大きな暖炉の火がある。入場パスを持っているので、僕は、晩のひと時を、よくそこで過ごす。人のよい聴衆が、ロッシーニのコントルダンスを聴いている間に、僕は、マントルピースの前の二つの長椅子に寝そべって、静かに夢想に浸る。オペラが終わり、聴衆がロビーに出てきたところで、退散する。スポンティーニが上演されることは、まずない。グルックに至っては、まったく絶望だ。フェドー劇場に連れて行かれた日は、これよりもっとひどく、どうでも出し物を聴かずには済まされない。劇場の入り口でオーケストラの奏者たちに出会い、腕を掴(つか)まれる。「おや、ベルリオーズ君じゃないか。今夜は来たまえ、話をしよう。」―――「券を持ってないんだ。」―――「僕が一枚送るよ。」実際、指揮者から入場券が届く。こうして僕は、椅子に釘付けにされ、この劇場のちょっとした[petit=取るに足らぬ、の意]オペラ、ちょっとした歌手たち、ちょっとした音楽、ちょっとしたお人よしの恋人たち、子どもじみた恋愛談[の意か。原語:ces passions d’enfants]、使い古された手管、といったものに付き合わされる。すると今度は、どこかの好人物が、話しかけて来る。「見事なものですな。そう思いませんか?」―――「いや、実に。」―――「退屈しておいでのようにお見受けしますが。」―――「ええ、うんざりなのです。といっても、フェドー劇場で特に、というわけではないのですが。」―――「なるほど。何か気の紛れになるような、変わったことが必要なのですな。いや、まったく、貴方のようになりたいものです。貴方ほど才能に恵まれていたら、私とて、さぞ幸福だったでしょうに。」―――「ありがとうございます。」それで僕は家に帰り、また独りぼっちになる。後は、いつも同じだ。
変わったことといえば、最近、アカデミー会員のオジェ氏が亡くなった。君たちも新聞で読んでいるに違いない。遺体は、今も見つかっていない。彼が自殺した日、彼の家では、大きな舞踏会が催されることになっていた。一家全員でもうすぐローマに発つことになっていたので、知り合いの人々に別れを告げるため、オジェ夫人が、彼ら全員を自宅に招いていたのだ。ローマ賞の選抜試験の間、[試験会場の]学士院の中庭の球戯場にいつも遊びに来て、僕らを悩ませていた、氏の気の毒な子どもたちは、最初の日、屋敷中に声を響かせて泣いていた。だが、翌日、通りかかったときは、すっかり静まり返っていた。彼らの母親は、非常に加減が悪いと言われていたが、夫を厄介払いできたことを喜びかねない、よくある浮気女の1人だ。
僕が知っている人で、今年死を選んだのは、オジェ氏で3人目だ。他の2人は、もう忘れ去られてしまった。2週間もすれば、人の口の端にも上らなくなる。だが、死者の話は、これくらいにしよう。君は、結婚を話題にする。誓って言うが、この問題について、君と僕は、同じ考えを持っている。大いに安心してくれたまえ。僕は、お金のための結婚は、仮に機会があったとしても、絶対にしない。豊かさの値打ちが、僕に分からないのではない。確かにそれは、僕にとって、贅沢やみせびらかしをして楽しむためだけにそれを求める多くの人々にとってより、ずっと大きな価値がある。愚劣な快楽をむさぼる、愚かな動物のような大勢の人たちの姿を見て、心穏やかなままで僕がいられると、君は思うだろうか?彼らが費やすお金の4分の1で、決して叶わない、燃えるような僕の願いが、いくつも実現できるというのに。近所に住む資本家たちが、これ見よがしに乗り回す馬車の騒音で、夜、眠れないときだって、同じ思いだ。[の意か。原文:Crois-tu que quand je vois tant d’ineptes animaux se gorger de leurs grossiers plaisirs, pendant qu’avec le quart de ce qu’ils dépensent je pourrais accomplir bien des voeux ardents et inutiles ; Crois-tu, quand mon sommeil est troublé par le fracas des insolents équipages des financiers qui habitent mon quartier, croi-tu que mon sang-froid soit inaltérable ?]だが、豊かさを望む理由が、さらにこの千倍も、僕にあったとしても、多くの人が結婚の付随物と考えているものを、そのために無視することは、僕には、できない。そのとおり、愛しい妹よ、君には、夫となる人に、ただの金銭出納人でなく、支え手、案内人、庇護者たることを求める理由が、大いにあるはずだ。僕自身のことを言うなら、僕が求めるのは、自分のもてる愛情のすべてをその人に注ぐことができ、自分がその人に、情熱的な愛がもっとも深く、もっとも優しく抱くであろう、すべての感情を持つことができる女性であり、かつ、そのような愛情に値する人だ。僕は、自分自身が彼女に対して持つのと、まったく同じ感情を彼女が自分に対して持ってくれることを、期待してはいない。たぶん、それでは、あまりに多くを求めることになってしまうだろうから。僕は、そのことで、自分に対する彼女の感情に不足があるとは決して思わないし、むしろ、それにもかかわらず僕のことを理解してくれる心の気高さを見出し、満足するだろう[原文:je ne demande pas qu’elle éprouve pour moi tout ce que j’éprouverais pour elle, ce serait peut-être trop demander, je ne le trouverai jamais, qu’elle ait pour moi un sentiment moins vif, mais assez élevé cependant pour pouvoir me comprendre et je suis satisfait.]。美しさや才能も、僕は求めない。仮に、マリブラン夫人の才能とスタール夫人の機知をあわせ持った、メディチ家の愛と美の女神のように美しい女性[原文:une femme belle comme la Vénus de Médicis ]を紹介されたとして、その人があらゆる美点を備え、莫大な財産を持っていたとしても、そうしたものは、僕が望むものではない。必要なのは、僕がその人を心から愛しているということで、それだけが、欠くことのできない条件だ。それ以外の考慮事項で、僕の愛情を左右し得るものは、もちろん、何ひとつないし、いかなる偏見も、僕に影響を与えることはない。取るに足りぬ偏見が存在すること自体が、その人のために僕がそれ[偏見]に立ち向かう人を、僕にとって、いっそう愛しい存在にするだけだ。そして、そのような人に、もしひとたび僕が巡りあったら、君も分かると思うが、天地の何ものも、その人を得るために、僕が最後の最後まで力を出し尽くすことを、止められはしない。何と!僕がそこで風や嵐に打たれるべく世に出るのは、ゲーテが喝破したとおり、自分にはどの程度までの幸福が期待できるのか見当をつけ、卑俗で、ありきたりな人生で満足するためだというのか![と解した。原文:Je serai venu dans la vie pour y être battu de vent et tempête, suivant la belle expression de Goethe, pour concevoir en imagination jusqu’à quel degré de bonheur il me serait possible d’atteindre et je me contenterais d’une destinée vulgaire et triviale !]。否、絶対に否!たとえ、人が僕を狂人扱いし、笑いものにし、好き勝手なことを言ったとしても、だ。僕は知っているが、人はいつも、自分たちが感じもせず、考えもしないものを、感じ、考える人間を、すべて狂人扱いする。だが、そんなやり方で嘲笑されても、僕には効き目がないし、うわさ話の内容や、うわさをする人々にも、僕は無関心だ[原文:pour l’arme du ridicule elle est sans action sur moi les caquets me sont aussi indifférents que ceux qui les font.]。いったいなぜ、説明のできない歓喜の源であり、不幸のとても大きな原因にもなり得る、この過度の感受性を、僕は与えられているのか?いったいなぜ、このように僕は出来ているのか?いったいなぜ、僕だけが、こうなのか?こういう存在であることを、僕は望んだか?[と解した。原文: Ai-je demandé d’être ?]・・・
しばしば思うのだが、僕は、両親に、大きな負担になっているに違いない。25歳を過ぎ、大いに努力しているが、自立できていない。それは、僕が、中途半端な立場に置かれているせいだ。音楽家となるべき生まれでなかったから、僕の両親は、音楽家の道を選ぶことに反対し、ただ、僕の粘りに根負けして、譲歩したにすぎない。幼い頃からこの道に向けて教育されたのではないから、自分の作品が収入をもたらす時が来るのを待つ間、それで稼ぐことが出来るような、演奏能力を身に付けることもできなかった。知り合いの若手作曲家たちは、僕と違い、みな、これができる利点に恵まれている。その上、長い間反対されたことで、少なくとも、3年は遅れてしまった。もっと早くから準備していれば、このつまらない学士院の懸賞にしても、2年は前に、獲れていたのだ。
ところが、お父さんは、僕が音楽に専念することに反対した。それが僕の一時的な関心にすぎず、思慮浅薄な若者にありがちな強い思い込みの所産であって、僕がその道で成功する見込みはなく、結局のところ、いかなる観点からもこの進路は僕に向いていないから、辛抱強く当たれば、僕の考えを変えさせることは、可能だと思ったのだ。
実験の結果、事実は、その反対であることが、お父さんにも、やっと分かった。だが、その実験は、僕には、致命的だった。なぜなら、もしお父さんが、この道を進むことを僕に思いとどまらせようとして、修業の進捗を早める手段を僕から奪うのではなく、この方向に向け、僕を全力で後押ししてくれていたなら、僕の境遇は、明らかに、ずっと良いものになっていただろうから。だが、お父さんは、自分が何よりも良いことをしていると信じて、この問題についてまさしく僕への愛情が命ずるところに従ったのだ。そのことを僕は決して疑いはしなかった。ほかならぬ両親の愛情が、子供たちにとって不利な、ときには、耐えがたい結果をもたらすことがあるという認識には、やりきれない思いがする。そうしたことが起きる理由は、親たちが、自分の子どもの性格を深く理解することは、まずほとんどないということ、それに、子供たちが、自分の両親に対し、親しい友達の間で話し合うように、気兼ねなく話すことを妨げるような教育の痕跡を、あまりに長く留めているということだ。だが、実際には、それこそが、あるがままの自分を知ってもらう、唯一の方法なのだ。とはいえ、僕には、それは不可能なことのように思われる。さあ、それでもやはり、それが必要事なのだ。
さあ、もうこのあたりにしておかないと、心気症患者だと、君に思われてしまうね。ムーアの明るい詩でも、ひとつ読んでみてくれたまえ。気分を楽にしてくれるだろう。なるべく早く、君の近況も知らせてくれるように。分かると思うが、お金がない状態でパリに居るのは、楽しいことではない。お金があれば、ただそれだけで、大いに楽しいのだけれどね。ついさっき、テセールさんから手紙が来て、明日11日、日曜に、公現祭のお菓子に誘ってくれた。さて、元日といえば・・・佳き新年を、君のために願うべきかな?[原文:à propos, le jour de l’An… Faut-il te souhaiter la bonne année ?]当地では、この日、みな大いにお金を使う。素敵な習慣だ・・・菓子屋とか、辻馬車の御者にとってはね。
何はともあれ、さようなら。愛情を込めて、君を抱擁します。君の兄、
H.ベルリオーズ(了)

次の手紙 年別目次 リスト1